女性アスリート健康支援委員会 五輪と女性スポーツの歩みを見つめて

新時代、女子マラソンの光と陰
先駆者の苦闘も目の当たりに

 

 ロサンゼルス五輪の女子マラソンでスタートした選手たち。右から6人目が増田明美さん(時事)
 1984年のロサンゼルス五輪では史上初めて、女子マラソンが陸上競技の正式種目として行われた。マラソンと駅伝は大きなブームとなり、先駆者となった女性アスリートが輝きを放つ。だが、日本体育協会(現日本スポーツ協会)のスポーツ診療所で日本代表選手らのメディカルチェックに当たった川原貴・女性アスリート健康支援委員会会長は、激しいトレーニングや無理な減量で苦しむ女子選手の姿も目の当たりにするようになった。

 「初めて五輪に採用された女子マラソンの日本代表に選ばれた選手が、体調不良になったのをニュースで見て、大丈夫かなと思いました」。川原氏は、ロス五輪の女子マラソンをめぐる記憶をこう振り返る。

 日本代表に選出されたのは佐々木七恵と増田明美の両選手だ。佐々木は粘り強い走りで完走し、19位だった。一方、高校時代から大きな期待を集めた増田は、大会前に体調を崩し、20歳で迎えた本番のレースを途中棄権した。

 近代オリンピックに女子選手が出場するのは1900年の第2回パリ大会からだ。日本の女子選手は28年のアムステルダム大会で初めて参加し、人見絹枝選手が陸上女子800メートルで銀メダルを取った。当時はその800メートルですら、「女子には過酷だ」と言われたほどだ。

 ◇ロス大会から正式種目に

 インタビューに応える女性アスリート健康支援委員会の川原貴会長
 国際陸連初の女子マラソン公認レースである79年の東京国際女子マラソン開催に当たっては、女性がマラソンを走って体は大丈夫なのかを医学チームが調査。川原氏もそのメンバーに加わった。5年後、ついに五輪という大舞台でも、女子選手が42.195キロを走り、新時代の幕開けを告げたが、日本の出場2選手は明暗を分けた。

  川原氏は、自らメディカルチェックした女子体操の選手の問題と合わせ、女性アスリートにどう対応し、どう健康を守ればよいのかを、改めて考えさせられた。「体協スポーツ診療所は、内科と整形外科の外来しかありませんでした。でも、無月経などの問題を放置しないために、婦人科の医師にも関わってもらった方がよいと思うようになりました」

 体協スポーツ診療所に週1回の「女性外来」が開設されたのは87年で、川原氏が非常勤の診療所長になった時だ。この年、産婦人科医を中心にした「女性スポーツ医学研究会」も発足し、健康問題に関する情報発信を始めた。

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