女性アスリート健康支援委員会 五輪の扉開いた心技体の成長

「女王」破る16歳の快挙が重圧に
無月経も経験、「減量には知識必要」―福見友子さん

 柔道選手としての集大成となる2012年のロンドン五輪で金メダルを目指して戦った福見友子さん。精進を重ね、大舞台に立つまでには、挫折も経験した長い道のりがあった。その原点は、まだ7歳だった時の1992年バルセロナ五輪のテレビ観戦だ。

 高校2年で出場した全日本選抜体重別48キロ級1回戦で谷(当時は田村)亮子選手(右)に優勢勝ちした福見友子さん=2002年4月、横浜文化体育館
 男子の古賀稔彦選手がけがを負いながら金メダルを獲得するドラマを生んだ大会では、女子柔道も初めて五輪の正式種目として行われた。「女子の選手が海外の選手を相手に戦っている姿も見て、感動しました。母親には、娘に武道をさせたいという気持ちがあったようで、地元の道場に連れて行ってくれました」

 生まれ故郷の茨城県土浦市は柔道が盛ん。道場には高段者もおり、練習環境としては恵まれていた。幼い頃に交通事故で父を亡くした3人きょうだいの末っ子は、8歳で始めた柔道に、どんどんのめり込んだ。中学時代から体重別の階級は48キロ級。3年の時には中学生の全国大会で日本一になった。

 土浦日大高校に進み、2年生になったばかりの2002年4月の全日本選抜体重別選手権。福見さんは1回戦で谷(当時は田村)亮子選手と対戦した。2年前のシドニー五輪で念願の金メダルを手にした「女王」は当時、日本人には公式戦で12年間も負けたことがなかった。だが、「対戦するだけで、緊張していた」という16歳は、大内刈りで「効果」を奪い、そのまま勝利する大番狂わせを演じた。

 ◇「勝たなくては」とスランプに

 福見友子さん。嘉納治五郎の言葉「尽己竢成(じんきしせい=己の努力を尽くした上で成功を期待すべきである、の意味)」から命名されたJR東日本女子柔道部の柔道場「竢成館」で
 一躍、脚光を浴びたニューヒロインは、快挙の喜びもつかの間、スランプに陥った。

 福見さんは「世間は『すごい』と言ってくれたが、わけもわからずに勝ってしまった」と当時を振り返る。周囲からは、「あの田村さんに勝った福見さんだ」と特別の目で見られるのに、同じ高校生が相手でも、思うようには勝てない。精神的に不安定になった。

 「とにかく負けてはいけない、勝たなくてはいけないと考える状況に、自分を追い込んでしまいました」。中学の時からつけていた「柔道ノート」には、「自分の柔道を完全に見失ってしまった」と書いた。

 苦境の時に、支えてくれたのは家族だった。福見さんが勝とうが負けようが、変わらず応援してくれた。母は「これからまた、一歩一歩やっていけばいいじゃないの」と声を掛けてくれた。

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