こちら診察室 介護の「今」

白寿の告白 第30回

 間もなく100歳になろうとする男性は、老人ホームの住人だ。

 「やっと、話すことができた」

 それは、35年前に逝った妻にも話せなかった胸の内だ。

年老いた男性は、霊場巡りを続けた

年老いた男性は、霊場巡りを続けた

 ◇花屋と結婚と

 妻と結婚したのは、中国大陸から復員して数年がたってからだ。出征前に見合いらしきものをして、婚約を済ませていた。復員したのは終戦の次の年。だが、すぐに結婚とはならなかった。

 その理由は男性にあったのだが、妻には言えなかった。

 昭和24(1949)年に「ある宣言」を聞き、それが本当だと確信できるようになった翌年に男性は花屋を始め、商売の先行きにめどが付いた年にやっと結婚をした。昭和27年。終戦からすでに7年、対日平和条約と日米安全保障条約が発効し、GHQ(連合国軍総司令部)が廃止された年でもあった。

 ◇店じまいと巡礼と

 男性は、妻の死を機に店を閉めた。後継ぎはいない。従業員を雇って続けるほど商いは大きくない。高齢者と呼ばれる年にもなり、毎朝の市場通いもつらくなった。年金はすずめの涙しかないけれど、老後のためにと建てたアパートの家賃収入を加えれば生活は何とかなるだろうとも思った。

 40年あまり続けた花屋を閉め、妻のいなくなった男性は、身体に負担の少ない春と秋に霊場巡りに出掛けたりしながら余生を送ってきた。霊場は、四国八十八カ所だけではなく、全国の至るところにある。きちんと計画を立て、心を込めて巡拝した。

 地元にいるときは、本を読んだり、散歩をしたり…。夜は、行きつけの飲み屋で夕食を兼ねてビールと焼酎のお湯割りを飲む日々を送った。

 ◇入院

 男性が80代の半ばを迎える頃、行きつけの飲み屋がのれんを下ろすことになった。奥さんの具合が芳しくないのと、主人自身の腰痛がひどくなったのが理由だという。

 寂しい知らせを聞いた帰り道、「これから夕飯の支度をどうしたものか、別の店を見つける元気はもうないし…」などと考えながら歩いていると、街路樹の根っこで盛り上がった歩道につまずき転んでしまった。骨折だった。救急車で運ばれた病院に、そのまま入院することとなった。

 都会に出て独立した子どもたちは、「すわ一大事」と飛んで帰って来たが、それぞれに自分たちの暮らしもある。

 歩けるようにはならないだろうという主治医の話を聞き、息子は一緒に住むことを勧めた。でも、男性は都会に出て行くつもりはない。娘は、老人ホームに入れたいらしい。そちらの思惑にも乗る気はない。

 ◇心に浮かんだ情景

 男性は、介護保険の在宅サービスの力を借りて、自宅での生活を続けた。ケアプランの目標は、再び歩けるようになって、霊場巡りを再開することだった。

 心に浮かんだのは、男性の愛読書の一つである藤沢周平の「三屋清左衛門残日録」(文春文庫)の最終場面近くの情景だ。それは、主人公の三屋清左衛門の旧友であり、隠居仲間でもある大塚平八が歩く習練を始め、それを清左衛門が遠くから眺めている場面だ。

 平八は1年ほど前に中風(脳出血脳梗塞まひが残った状態)に倒れ、歩けなくなっていた。医者は「たゆまずに励めば再び歩けるようになる」と言ったらしいが、平八は習練に踏み切れずにいた。久しぶりに見舞いに訪れた清左衛門はその日、早春の光の下で虫のような、しかし辛抱強い動きを繰り返す平八の姿を目撃する。清左衛門は声を掛けずにその姿を凝視する。それは、「辛くて汗ばむような眺め」ではあるが、「胸が波打つ」情景でもあった。清左衛門は思う。

 「人間はそうあるべきなのだろう。衰えて死がおとずれるそのときは、おのれをそれまで生かしめたすべてのものに感謝をささげて生を終ればよい。しかしいよいよ死ぬるそのときまでは、人間はあたえられた命をいとおしみ、力を尽くして生き抜かねばならぬ、そのことを平八に教えてもらった」

 男性は、欲得ではなく、力を尽くして生き抜くためにリハビリをしようと思った。そうしなければならない理由があった。

 ◇老人ホームへの入所

 それから5年が過ぎても、男性は歩けなかった。90歳になっていた。一人暮らしの限界も感じ始めていた。そんなある日、担当のケアマネジャーが有料老人ホームのパンフレットを持ってきた。

 何と、その老人ホームの裏山に、四国八十八カ所を模した巡礼コースがあるというのだ。ケアマネジャーは、車椅子を押してくれるボランティアの女性も見つけたという。

 ◇決断

 かくして、男性は老人ホームに入所し、霊場巡りを再開した。そして、10年が過ぎ、100歳の誕生日が近づいて来た。

 月に2回ほどだったが、ボランティアは天気の良い日を選び、10年間ずっと車椅子を押し続けてくれた。

 男性は、ひたひたと人生の終わりが近づいているのを感じた。自分がどのような重荷を背負いながら生きてきたのか。妻にも話す機会がなかった胸の内を、一人墓場に持っていくのはとてもむなしいことのように思い始めていた。

「この人に聞いてもらおう」

 男性はボランティアに自分の胸の内を聞いてもらう決断をした。それは、妻との結婚を延ばし、職業に花屋を選び、霊場巡りを行ったことにもつながる過去、陸軍の兵卒時代の体験だった。

 ◇背負ってきたもの

 戦争中とはいえ、男性は現地の民間人を刺したことがあるのだ。相手は老人だった。軍に反抗的な態度を取ったかどで、上官が男性に処刑を命じたのだ。上官の命令は絶対である。逆らって瀕死(ひんし)の状態になった戦友を知っている。男性は顔面蒼白(そうはく)になりながら、目をつぶって老人の胸に銃剣を突き立てた。
 やがて敗戦。生き残りの将兵の中には戦犯(戦争犯罪人)として逮捕され、裁判にかけられる者もいた。男性は恐怖に震えていた。逮捕されれば死刑は免れないだろうとも思っていた。しかし、男性は逮捕されずに復員することができた。

 内地に帰っても戦犯狩りは行われていた。「今度は自分の番か」とおびえた。だから、妻と結婚などできるわけがなかった。

 昭和24年10月19日。GHQは、戦犯関係の軍事裁判終了を宣言した。それが冒頭で述べた「ある宣言」だ。だが男性は、あれほどの罪が消えるとは思っていなかった。3年後の27年。対日平和条約と日米安全保障条約が発効し、GHQが廃止されたという知らせを聞き、妻とひそやかに結婚した。花屋を始めたのも、霊場巡りを行ったのも、戦争中に犯した罪を償うためだった。それが男性の生きた道。

 ボランティアは、目を少し潤ませながら優しくうなずいた。(了)

 佐賀由彦(さが・よしひこ)
 1954年大分県別府市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。フリーライター・映像クリエーター。主に、医療・介護専門誌や単行本の編集・執筆、研修用映像の脚本・演出・プロデュースを行ってきた。全国の医療・介護の現場を回り、インタビューを重ねながら、当事者たちの喜びや苦悩を含めた医療や介護の生々しい現状とあるべき姿を文章や映像でつづり続けている。中でも自宅で暮らす要介護高齢者と、それを支える人たちのインタビューは1000人を超える。

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