一流に学ぶ 難手術に挑む「匠の手」―上山博康氏

(第6回)骨埋める覚悟、秋田へ=もう一人の恩師との出会い

 ◇熱烈ラブコール、手料理で歓迎会

 伊藤氏は脳動脈瘤の手術を、イラストと英語の文章で説明する手術書「脳動脈瘤アトラス」を作成していた。3カ月の研修中、上山氏は伊藤氏の手術をスケッチしていたのだが、そのイラストを見た伊藤氏はレベルの高さに驚き、アトラスの作成には欠かせない人材と考えていたようだった。上山氏の絵は高校時代、芸術大学への進学を勧められたほどだった。

 「イラストレーターを2人雇っていたんだけど、解剖を教えるのが大変でなかなかうまくいかない。僕に指導させれば、思ったような絵が描けると思ったのでしょう」

 伊藤氏は、上山氏がまだ秋田へ行くとも決めていないのに、大きな公舎と二つの研究室まで用意して、熱烈なラブコールを送り続けた。

 都留教授に「お前、善太郎にそこまで見込まれたら男冥利(みょうり)に尽きる。行って来い」と言われ、上山氏は秋田に向かった。

 「フェリーに車を載せて、青函連絡船のドラが鳴ると、横殴りの雪が降ってきました。ちょうど津軽海峡冬景色の『ごらんあれが竜飛岬』っていう歌詞そのままの光景で。一生、伊藤先生のところで骨を埋める気持ちでした」

 秋田脳研に赴任した直後のこと、伊藤氏が自宅で手料理を作って歓迎会をしてくれるというので妻を連れて出掛けて行った。すると伊藤氏が上山氏の妻に向かって、「上山を僕に預けてください。きっと男にして帰すから」と頭を下げた。

 「預けてくれということの意味がよく分かったって、うちの奥さんが後で言いました。次の日からほとんど家に帰れなくなったから」

 秋田脳研での日々は濃密で、上山氏自身も「40年余りの医師生活の中で最も楽しい時間だった」と振り返る。(ジャーナリスト・中山あゆみ)

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