一流に学ぶ 難手術に挑む「匠の手」―上山博康氏

(第7回)「論文書くな」恩師の言葉=不慮の事故、懸命看護も実らず

 ◇「医者の全存在かけろ」

 どうしても納得のいかないことが一つだけあった。伊藤氏は重症で手の施しようがない患者でも、亡くなると深々と頭を下げ、「力及ばず申し訳ございませんでした」と謝るのだ。違和感を持った上山氏が「そうやって謝ったら、落ち度がないのに医療ミスのように思われませんか」と尋ねると、伊藤氏は少しムッとして答えた。

 「それは上山、医者の論理だろう。医者にはダメと分かっても、患者さんには分からない。助けてほしいから来ているんだよ。俺たちに力がないから助けられないんだ。患者は命がけで医者を信用して、人生をかけて震えながら手術台に上がるんだよ。俺たちは何で応えるんだ。医者としての全存在をかけて応えろ。それしか患者の信頼に応える方法はないんだ」

 この言葉が、その後の上山氏が、医師人生の岐路に立たされたときの道しるべとなる。

 秋田に着任してから1年半後の12月、伊藤氏がスナックの階段を踏み外して頭を強打し、突然、帰らぬ人となってしまった。

 「その日、先生は秋田県庁に行って夕方、秋田脳研の公務員の定員枠が4人から7人に増えたって大喜びして帰ってきたんです。医師が10人いるのに4人分しか給料が出なくて、残りの6人は非常勤でした。部下のために一生懸命交渉してくれて、やっと希望が通ったと。その夜、同期会があるからと県庁の書類が入った袋を持ったまま出掛けました」

 救急車で運ばれた伊藤氏に蘇生処置を施し、緊急手術をしたのは上山氏だった。「心臓も止まりそうだし、もう助かる状況じゃなかった。だけど何としても死なれたくないから開頭手術しました。軸索損傷という特殊な外傷で脳の損傷が激しく、普通なら手術はしない状態でした。でも諦めたくなかった」。一命はとりとめたものの、脳死状態だった。上山氏は病院に泊まり込んで見守ったが、4カ月後の4月、伊藤氏は息を引き取った。44歳の若さだった。(ジャーナリスト・中山あゆみ)

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