一流に学ぶ 難手術に挑む「匠の手」―上山博康氏

(第8回)北大戻るも、居場所なく=手術器械の開発に専念

 伊藤善太郎氏の葬儀の日、秘書から思いがけない話を聞いた。秋田県庁の手違いで、上山氏の身分は秋田脳研赴任当時は非常勤だった。しかし医局からの手当として、毎月10万円が補填(ほてん)された。それは、伊藤氏が自分の給料袋から抜き、上山氏の手当に充当してくれたお金だったというのだ。

 「秘書は泣きながら話してくれましたが、思い出しても涙が出ます。そういう部下を思いやる伊藤先生が、部下の定員が増えたと大喜びしたその日に、致命傷を負うなんてあまりにも悲しい」

 目をかけてくれていた伊藤氏が亡くなると、後ろ盾を失った上山氏は逆風にさらされることになった。

 北海道大の都留教授からは「善太郎が死んだら、どうしょうもないだろう」と、大学に戻るよう諭された。しかし、上山氏は「アトラスの絵を描き終えるまでは帰れない」と突っぱねてしまった。「せっかく帰って来いと言ってくれたのに、恩知らずとは分かっていたけど、伊藤先生の本だけは何としても仕上げたかった」

 結果的に、アトラスの重要な絵はすべて上山氏が描くことになった。伊藤氏の死から3年後の11月、アトラスが発刊された。中でも当時、誰も見たことのない、くも膜下腔を空想して描いた絵は、海外でも評判となり、上山氏の名前が世界的に知れ渡った。

 都留教授の退官が近づくと、自分の采配が通るうちにと上山氏は北大に戻された。

 「もともと骨を埋める覚悟で秋田脳研に行った。上山軍団の仲間たちやお世話になった先輩たちと別れるのはつらかったけど、もうノーとは言えませんでした」

 しかし、上山氏が北大に戻った時、都留教授はすでに退官していた。学内の形勢はすっかり逆転してしまった。

 「助手室という大部屋に机一つ与えられ、何もさせてもらえない幽閉状態です。外来も手術も、まったくさせてもらえない干された状態が続きました」

 何もしなければ、クビにする口実を与えるようなものだ。まだまだ働き盛りの35歳。「こんなことで負けるほどヤワじゃない」と腹をくくった上山氏は、この状況でできることを見つけ、片っ端から取り組んでいった。

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