特発性正常圧水頭症(iNPH)を見つけるために
重要な所見
『高位円蓋部・正中の脳溝の狭小化(THC)』
の定義を明瞭化
高齢になり、歩行障害、物忘れ、尿失禁の三つの症状で発症する 特発性正常圧水頭症(iNPH)※1は進行性の病気であり、早期発見、早期治療が重要である。この病気の早期発見に有用な画像的特徴として、脳室拡大よりも くも膜下腔の不均衡分布(DESH)※2 なかでも高位円蓋部・正中(頭頂部・てっぺん)の脳溝の狭小化(THC)※3が重要であることが知られている。本研究でTHCの判定に用いる高位円蓋部・正中の脳溝・くも膜下腔の部位を定義し、THCの判定に有用な指標を新たに提案した。
World Neurosurgery (2023年5月26日 pre-proof版にてWeb公開)
研究成果の概要
脳に慢性的に水が溜まる病気である水頭症は、子供よりも60歳以上の高齢者に多い病気である。
速く歩けなくなり、ふらついて転倒する、物忘れ、トイレが近くなり、トイレまで我慢ができない切迫性尿失禁などの症状で発症する特発性正常圧水頭症(iNPH)は進行性の病気であり、症状が重くなると日常生活に介護が必要となる。症状が進行してから治療を受けても、自立した生活を取り戻すことは難しいため、早期発見、早期治療が重要である。
加齢によって慢性的に水(脳脊髄液)が溜まるiNPHでは、脳室だけでなく、脳脊髄液の大半を占める(脳室の約10倍)くも膜下腔も同時に拡大する。しかし、『水頭症は脳の内側に存在する脳室が拡大する病気』と多くの医師が考えているため、しばしば『脳萎縮』と誤解されてしまうことがある。そこで、脳萎縮とiNPHを判別するのに重要な画像所見としてDESH、THCが知られる。しかし、これまでDESH、THCは医師の主観で評価されており、経験豊富な専門家でも判定が異なることが課題であった。そこで、本研究ではまずDESH、THCの判定方法、基準について言及した過去の論文を網羅的に検索した。しかし、THCの根拠となる高位円蓋部・正中の脳溝・くも膜下腔の部位を明確に記載した論文は存在せず、過去の論文を参考に部位を新たに定義した。具体的には、頭部の3次元MRI 画像で、MRIの基準軸である前交連(AC)と後交連(PC)を結ぶAC-PCラインに垂直かつACとPCの中点を通る冠状断面において、頭頂部の正中から左右に3cmの範囲かつ、AC-PCラインを含む矢状断正中面において、脳梁膝部前端より後方、脳梁溝(帯状溝)後部より前方、側脳室より上方の範囲を高位円蓋部・正中の脳溝・くも膜下腔と定義した(図)。
この領域を3次元MRI画像から抽出し、体積、頭蓋内容積に占める体積割合、さらに体積を脳室体積で割った比(HCVR:high-convexity part of the subarachnoid space volume per ventricular volume ratio)を算出した。この結果、T1強調画像とT2強調画像のいずれにおいてもHCVRが0.6未満であれば、THCである可能性が高いことを示した。
本研究成果は、世界脳神経外科学会の機関誌であるWorld Neurosurgeryのオンライン版で2023年5月26日に掲載された(pre-proof版)。
【背景】
脳に水が溜まる慢性水頭症は、実は子供よりも60歳以上の高齢者に多く、特にiNPHは加齢に伴って発症率が増加傾向にあり、超高齢社会の日本では今後も増えていく病気である。症状は、速く歩けなくなる、ふらつくなどの軽い歩行障害から始まり、次第にすり足歩行※4、小刻み歩行※5、開脚歩行※6、すくみ足※7、突進現象※8などの病的歩容が顕著となり、転倒して動けなくなったり、頭部外傷・骨折で救急搬送されることが多い。さらに歩行障害が進行すると、自力で歩けなくなり、立ち上がることも難しくなる。歩行障害以外では、やった事を忘れてしまう、行動する意欲がなくなり一日中ボーと座っているなどの認知機能低下、トイレが近くなる頻尿、トイレまで我慢ができない切迫性尿失禁などの症状が進行性に出現して、悪化していくため、重症化すると日常生活に介護が必要となる。症状が進行してから治療を受けても、自立した生活を取り戻すことは難しいため、早期発見、早期治療が重要と考えられている。
しかし、iNPHでは脳の内側にある脳室だけでなく、脳脊髄液の大半を占める脳の周囲を覆うくも膜下腔も同時に拡大することが多く、『水頭症は脳の内側に存在する脳室が拡大する病気』という医師の思い込みから、しばしば『脳萎縮』と誤解されて、発見が遅れてしまう。脳萎縮とiNPHを判別するために重要な画像所見として、くも膜下腔の不均衡分布(DESH)、高位円蓋部・正中の脳溝の狭小化(THC)が認知されつつあるが、このTHCを判定する際に、どれくらいの体積(もしくは体積割合)であれば狭いと判定して良いのか? そもそもどの部位を計測すれば良いのか? これまで明確な定義がなく、主観的に評価されているため、経験豊富な専門家でも判定が異なることが課題であった。
【研究の成果】
DESHが提唱された2010年以降の論文を網羅的に検索し、本文中にTHCの判別に用いる部位について記載されていた6論文を抽出した。しかし、いずれの論文にもTHCの判別に用いるCTやMRIの断面については記載されていたが、どの部位かは定義されていなかった。これら6論文の他に、2019年に米国メイヨークリニックの研究グループから機械学習を用いてDESH、THCの判定に有用な部位として脳梁溝(もしくは帯状溝)の後端より前方の脳溝が同定された。この結果を参考にして、THCの判定に用いる高位円蓋部・正中の脳溝・くも膜下腔の部位として、3次元MRI 画像の矢状面でAC-PCラインに垂直かつACとPCの中点を通る冠状断面において、頭頂部の正中から左右に3cmの範囲かつ、脳梁膝部前端より後方、脳梁溝(帯状溝)後部より前方、側脳室より上方の範囲を高位円蓋部・正中の脳溝・くも膜下腔と定義した(図)。
21歳から92歳までの健常ボランティア138人とDESHと判定されたiNPH患者43人について、3テスラMRI装置を用いて頭部3次元T1強調MRIとT2強調MRIを撮影し、T1強調MRIは脳区域解析アプリケーションにより、脳室とくも膜下腔を自動領域抽出し、T2強調MRIから脳室とくも膜下腔を手動で領域抽出した。抽出したくも膜下腔から、定義した高位円蓋部・正中の脳溝・くも膜下腔の領域を手動で抽出し、体積と頭蓋内容積に占める体積割合を算出した。体積、体積割合ともに、健常者とiNPH患者では有意差が認められたが、T1強調MRIかT2強調MRIかによって差があり、カットオフ値を一つに絞ることができなかった。そこで、高位円蓋部・正中の脳溝・くも膜下腔の体積を脳室体積で割ったHCVRについて検証したところ、T1強調画像とT2強調画像のいずれにおいても0.6未満であれば、THCである可能性が高く、判定に有用な新たな指標として提唱した。
【研究のポイント】
・ iNPHの診断に重要な画像所見THCの判定に用いる高位円蓋部・正中の脳溝・くも膜下腔の部位を明確に定義した。
・ THCの判定に有用な指標として、新たにHCVR<0.6を新たに提案した。
【研究の意義と今後の展開や社会的意義など】
これまでは主観的に評価されていたTHCの判定が、本研究により定義が明確となり、定量的・客観的に評価可能となったことで、経験豊富な医師でなくてもiNPHに特徴的な画像所見であるDESHを判別がしやすくなったと考えている。
今後は、本研究で定義した高位円蓋部・正中の脳溝・くも膜下腔の部位を深層学習で自動抽出し、DESH、THC、脳室拡大を自動判定するアプリを開発・リリース・社会実装につなげることで、診断・治療の地域偏在を減らし(医療の均てん化)、高齢者の生活自立の向上や健康寿命の延伸に貢献したいと考えている。
本研究は、名古屋市立大学、滋賀医科大学、東京大学、大阪大学、東京都立大学、洛和会音羽病院、富士フイルム株式会社の共同研究による成果である。本研究グループは、ヒトの脳血液循環と脳脊髄液の動きをコンピューター上で再現して、ヒトの脳の自然老化現象をシミュレーションし、正常圧水頭症、認知症、脳卒中などの脳環境に関連する病態を解明することを目指す医工連携、産学連携研究である。
【用語解説】
※1 特発性正常圧水頭症(iNPH):idiopathic Normal Pressure Hydrocephalusの略。歩行障害、認知障害、切迫性尿失禁をもたらす疾患で、くも膜下出血や髄膜炎などに続発する二次性正常圧水頭症と異なり、先行する原因疾患はなく、緩徐に発症して徐々に進行する。
※2 くも膜下腔の不均衡分布(DESH):Disproportionately Enlarged Subarachnoid-space Hydrocephalusの略。シルビウス裂・脳底槽が拡大し、高位円蓋部・正中の脳溝が狭いことを同時に示す画像所見。
※3 高位円蓋部・正中の脳溝の狭小化(THC):Tightened sulci in the High Convexityの略。脳室とシルビウス裂・脳底槽と呼ばれる脳の下方のくも膜下腔が拡大することで、脳が上方に押し上げられ、頭頂部の脳溝・くも膜下腔が脳と一緒に圧縮されて狭くなる画像所見。
※4 すり足歩行:つま先やかかとが床面から離れないで、滑るように歩く様子。
※5 小刻み歩行:歩幅が狭くなり、小股で歩く様子。
※6 開脚歩行:足を広げて歩く様子。つま先が開いていても、足の幅が開いていても良い。
※7 すくみ足:足が地面にくっついて離れないようになり、一歩目を踏み出せない様子。
※8 突進現象:下り坂などで、かかとでブレーキをかけることができず、前のめりになって突進してしまい、つんのめって転倒することが多い。常にではなく、突然に起きるので突進現象と呼ばれる。
【研究助成】
・日本学術振興会 科学研究費助成事業 基盤研究(C) [研究課題名:脳脊髄液の新規流体解析を用いた正常圧水頭症の病態解明]
・日本学術振興会 科学研究費助成事業 基盤研究(B) [研究課題名:MRIを用いた脳脊髄液・間質液の動態解析]
・日本学術振興会 科学研究費助成事業 基盤研究(A) [研究課題名:脳卒中リスク予測のための全身―脳循環代謝の解析システム構築]
・日本学術振興会 科学研究費助成事業 基盤研究(C) [研究課題名:ヒト脳髄膜・脊髄神経根鞘内-髄液排液システムの微細構造学的・MRI画像解析]
・富士フイルム株式会社 [研究課題名:3次元画像解析システムを用いた脳・脳脊髄液・脳血流の動態解析・シミュレーション]
・公益財団法人大樹生命厚生財団 医学研究特別助成 [研究課題名:正常圧水頭症による認知症の診断・治療]
【論文タイトル】
Tightened sulci in the high convexities as a noteworthy feature of idiopathic normal pressure hydrocephalus
【著者】山田 茂樹1, 2, 3)、伊藤 広貴4)、松政 宏典4)、谷川 元紀1)、伊井 仁志5)、大谷 智仁6)、和田 成生6)、大島 まり2)、渡邉 嘉之7) 、間瀬 光人1)
所属 1;名古屋市立大学 脳神経外科学講座
2;東京大学大学院 情報学環 生産技術研究所
3;洛和会音羽病院 正常圧水頭症センター
4; 富士フイルム株式会社
5;東京都立大学大学院システムデザイン研究科・機械システム工学域
6;大阪大学大学院基礎工学研究科 機能創成専攻生体工学領域、生体機械学講座
7; 滋賀医科大学 放射線医学講座
【掲載学術誌】
学術誌名:World Neurosurgery
DOI番号:10.1016/j.wneu.2023.05.077
本文:https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/S1878875023007106?via%3Dihub
【研究に関する問い合わせ】
名古屋市立大学 大学院医学研究科 脳神経外科学 講師 山田 茂樹
住所:〒467-0001 愛知県名古屋市瑞穂区瑞穂町川澄1
TEL: 052-853-8286 FAX:052-851-5541
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名古屋市立大学 病院管理部経営課
愛知県名古屋市瑞穂区瑞穂町字川澄1
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(2023/06/09 15:01)