Dr.純子のメディカルサロン

「コミュニケーションスキルを磨く」 澤祥幸 岐阜市民病院診療局長

 澤祥幸先生に初めてお会いしたのは、オーストラリア・シドニーで2013年に行われた世界肺がん学会でした。私は「がんの患者さんの治療に対する満足感を上げるために必要な要因」について発表し、肺がんアドボカシー(患者さんの支援活動)に精力的に取り組まれている澤先生と意見交換する機会を得ました。
 その後、澤先生が岐阜市民病院がんセンター長として開催している、がん患者さんのためのシンポジウムで私が講師を務めるなどの交流が続いています。
 がんの患者さんの心に向き合う澤先生の医療の原点を知りたいと思い、今回お話を伺いました。


 海原 よろしくお願いいたします。先生が医師を目指されたきっかけを教えてください。

  いくつかの動機があります。私が生まれて間もなく母親が結核を発症し、子供がいなかった農家に引き取られ、その後に弟が2人生まれたという複雑な背景があります。

 子供の頃に憧れる職業は、パイロット、警察官、医者という時代でした。ちょうど養父が、毛利の三本の矢に例えて、私たち兄弟に①医師②弁護士③銀行家になれ、と説教したことがあります。

 ただ、半世紀以上前、医師を目指すのは勉強ができて、かつ病院や経済的に豊かな家庭の子弟など特別な環境の学生に限られていたため、自分が実際に医師になれるとは思っていませんでした。

 強烈な動機が生まれたのは高校進学後に友人が脳腫瘍になり、半身不随となっても通学していた時でした。私たちの仲間は3人で、別のもう一人の友人も医学部に進学しました。残念ながら当時の医学レベルでは治すことは困難で、脳腫瘍の友人は私が医学部在学中に亡くなりました。

 死を連想する病気を直視する機会がなかった高校生には、その後の生き方に影響を与え続けることになる出来事でした。結局、私は大学卒業後も研修先の師匠に恵まれ、臨床腫瘍学の道に進みました。

 もちろん、きれいごとばかりでなく、不純な動機もあります。昭和30年代は貧しく、医師になれば欲しいものが手に入る、とかすてきなマドンナに気に入られて付き合ってもらえるのではないかなど、誰もが考える動機も少なからずありました。


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