こちら診察室 アルコール依存症の真実

依存症の夫から逃げ出した女性 第10回

 これは、アルコール依存症の夫を持った女性の物語である。

アルコール依存症の夫と決別

アルコール依存症の夫と決別

 ◇ケースワーカーの優しい言葉

 「もう駄目」。夫の元をやっとのことで逃げ出した女性は、アルコール依存症専門外来に飛び込んだ。女性を迎えたケースワーカーが言った。「よく相談にいらっしゃってくれました」。何と優しい響きだろうか。

 女性は「そのケースワーカーと出会ったことで、今の私があるのだと思います」と振り返る。ケースワーカーは女性の話を何度もうなずきながら聞いた後で、こんな言葉を掛けた。

 「つらかったでしょう。今まで、本当に頑張ってこられましたね」

 続けて語られた言葉で、女性の目は涙にぬれた。

 「これからは、あなたのことだけを考えて生きてください」

 ◇未来への光

 女性が、ある家の長男の嫁として嫁いだのは、30年前だ。舅と姑は夫に甘いが、嫁には厳しく、夫の一歩も二歩も後ろを歩くことを強いられた。夫の酒癖はどんどん悪くなっていった。「私が何とかしなければ」と女性は思い続けた。

 「30年の間、私は自分のためではなく、夫のために生きてきたのです。だから、ケースワーカーの言葉に目が覚めるようなショックを受けました」

 その一方で、「そんな生き方が本当にできるのだろうか」と疑うような気持ちも湧いた。「でも…」と女性は続ける。

 「私の未来に初めて光が見えたような気がしました。自分のことだけを考える生き方ができたら、どんなにすてきなのだろうと真剣に思いました」

 ◇住み慣れた地から避難

 今までと違う未来をどこで営むか。女性は九州のある都市に住んでいた。ケースワーカーは強く提案した。

 「ここに居ては、ご主人に見つかるかもしれません。この地からぜひ離れてください」

 アルコール依存症の困難さは、そんなところにもある。女性は生まれてからずっと、今の土地を離れて暮らしたことはない。50代半ばにして初めての転地。大いなる決断だった。ケースワーカーは「今すぐにでも」と転地を勧めた。女性は再び自宅に帰ることなく、その足で東京にいる次男の独身寮に転がり込んだ。そして半年後、アパートで一人暮らしを始めた。

 ◇自助グループ

 アルコール依存症は本人だけではなく、本人に関わる人たちをも苦しめる病気だ。関わった人にも治療と癒やしが必要だ。ケースワーカーは、東京の「アラノン(Al-Anon)」を紹介した。アラノンとはアルコール依存症の本人から影響を受けた人のための自助グループだ。影響を受けた人には家族だけではなく、友人も含まれる。

 女性は自助グループのミーティングに通いながら、ケースワーカーの「あなたのことだけを考えて生きて」という言葉の確かさをかみしめる日が続いた。

 ◇他人には治せない病気

 女性は語る。

 「30年間、ずっと私の力で何とかなるだろうと思って頑張ってきました。けれど、少しも結果が出ませんでした。そう、私の力はアルコールには無力だったのです。そのことを知ることができました。『夫は病気なのだ、だからそれを治せばいいのだ』と考えるのは普通でしょうけれど、お医者さんが外科手術で患部を切り取るようにはいきません。他人には何ともできない病気であることが分かりました」

 ◇「私の人生は変えられる」

 女性はひと息ついてから続ける。

 「妻であっても、親であっても、子であっても、しょせんは他人です。他人の力で本人を変えることはできません。夫は夫の人生、私は私の人生。だから、私が抱え込もうとしていた夫の人生を私は手放してもいいし、いや、絶対に手放すべきなのです」

 女性は決意の表情を見せる。

 「夫を変えるのでも、夫が変わるのを待つのでもなく、私自身が変わらなければ駄目。変えられないものは夫の人生、変えられるものは私の人生。変えられないものは変えられないと受け入れ、変えられるものは変えていこうという勇気を持つことが大切なのです」

 ◇数年がたち

 夫から逃げて数年がたった。女性は、時々子どもたちと会いながら穏やかに暮らしている。「そんな毎日の生活そのものが私にとっての宝物です」と、しみじみと語る。

 「私は夫が憎いのではありません。生涯で愛した、たった一人の男性です。だから、やっぱり夫のことが心配です。もちろん、夫と会うことはありません。会ったらきっと元のような地獄が待っていると思うからです」

 女性は夫へ手紙を書いた。消印にも気を使い、旅先で投函(とうかん)した。

 ◇夫への手紙

 切々とした心情を記した手紙を紹介する。

 ○月○日

 しらふの時に、お読みください。

 私のテーブルの上には真っ赤なシクラメンが咲いています。朝に晩に「きれいだね、きれいだね」と語り掛けています。

 飲もうと飲むまいと、朗さん(仮名)自身の選択ですから、おせっかいはしないつもりです。でもやっぱり、私は一滴も飲まない、酔っ払わない朗さんを愛し続けています。

 そしていつの日か、お酒より素晴らしい友を見つけて、手を取り合って語り明かせる日の来ることを望んでいます。

 今でも思い出すのは、朗さんが退職をきっかけに100日間断酒が出来た時、番茶と羊羹(ようかん)を持って公園にお花見に二人で出かけた時のことです。結婚生活の中で、あの時ほど楽しかったことはなかったなあと、つくづく思い出すのです。

 それほど、朗さんのお酒の飲み方は普通ではなくて、私にとっては嫌で嫌でどうしようもなかったのが、何年も積み重なっていたんだなあと、今さらのように思い出されます。

 お元気でお過ごしください」(この手紙は女性の了承を得た上で、ほぼ原文のまま記載しています)。(了)

 佐賀由彦(さが・よしひこ)
 ジャーナリスト
 1954年大分県別府市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。フリーライター・映像クリエーター。主に、医療・介護専門誌や単行本の編集・執筆、研修用映像の脚本・演出・プロデュースを行ってきた。全国の医療・介護の現場(施設・在宅)を回り、インタビューを重ねながら、当事者たちの喜びや苦悩を含めた医療や介護の生々しい現状とあるべき姿を文章や映像でつづり続けている。アルコール依存症当事者へのインタビューも数多い。

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