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新型コロナワクチン接種の「後押し」問題 あずさ監査法人ディレクター水口毅(元日銀那覇・広島支店長)


 7.ワクチン接種を後押しすべきか否か

 (1)自己決定権、不公平、財政負担の問題

 米国やフランスなどでは、ワクチン接種やマスク着用の推奨・義務化について、国内で根深い対立が見られる。特に米国では、バイデン政権が「接種後押し」の政策姿勢を明示しているのに対して、共和党勢力が強い諸州では、強い反発が見られる。その背景には、「感染拡大の抑制」という社会重視の考え方と、「個人の自己決定権の確保」という個人重視の考え方の対立がある。

 米国で後者の考え方が強いことは、本稿の冒頭で示した米国における「接種の減速」の背景の一つだと考えられる。

 このほか、ワクチン接種者へのインセンティブ付与には、その制度導入前に接種済みの人との間の不公平が生じる、あるいは、無用な財政負担が増える、などの批判がある。

 そして、この財政負担の点については、次の(2)に記す「外部性」の考え方からの反論がある。

 (2)外部性

 ミクロ経済学の教科書に必ず登場する言葉に「外部性」がある。主体Aと主体Bの間の行為が、別の主体Cに影響を及ぼすことなどと説明される。例えば、自治体Aが地元の歴史的建造物の所有者Bを支援して、B所有の建造物の修復を実現した場合、そのプラスの効果は、地元住民・観光業関係者Cにも及ぶ。他方、運転者Aが自動車販売店Bから車を買って運転すると、排ガスが出る。この排ガスは、周囲の住民Cに大気汚染というマイナスの効果を及ぼす可能性がある。

 新型ウイルス感染症用に開発されたワクチンは、(所期の効果があり、副作用が限定的である限り)接種を受けた人A、接種を行った医療従事者Bとは別の人々Cにプラスの効果をもたらす。なぜなら、Aは接種後に(感染する可能性は残っても)重症化リスクは小さくなり、入院して医療従事者のマンパワーを使う可能性が減る。つまり、医療崩壊の回避にプラスに働く。さらに、「集団免疫」(後述)の実現に「一票」を投じることになる。

 米ハーバード大のグレゴリー・マンキュー教授は、早くからコロナワクチンの「プラスの外部性」を指摘するとともに、ワクチン接種を受けることに消極的な人々が少なからずいることを前提として、「ワクチン接種を受ける人々に報奨金を」と主張していた。今からちょうど1年ほど前のことである。
 出所:New York Times 2020年9月9日 “Pay People to Get Vaccinated” by Gregory Mankiw

 (3)変異株の影響について注意すべきこと

 感染が続く限り、新しい変異株が次々と生まれる。おそらく感染者が多ければ多いほど、変異株登場の可能性も大きくなるだろう。そして、変異株の中に、感染力が強かったり、毒性が強かったりするものがあると、医療体制に強い負荷がかかり、感染症で亡くなったり、後遺症が残ったりする人々が多くなる。9月3日に分科会が示した「ワクチン・検査パッケージ」によって、将来的にどの程度われわれの生活の自由への制限が緩和されるかについても、変異株が大きな影響を与え得ることには注意が必要である。

 言うまでも無く、緊急事態宣言などで人々の行動が制約を受けると、経済にマイナスに働き、人々の不満が増大する。

 (4)義務化について注意すべきこと

 体質など健康上の理由や、宗教・信念の関係からワクチン接種を受け入れない人もいるであろう。

 米国の連邦政府職員について見ると、ワクチン接種の義務付けに限定されているわけではなく、定期的なウイルス検査・マスク着用でも良いことになっている。これは、「ワクチン接種を受け入れられない人々に対する配慮」の結果だろう。

 分科会の公表資料は、例えば次のように、注意深く表現している。

 わが国では(中略)検査とともにワクチン接種は本人の意思に基づき行われている。ただし、ワクチンが社会防衛として行われるという観点から、例えば、感染リスクの高い職場での活用など、接種していない人が一定の制約を受けるという不利益をどこまで社会的に甘受すべきかを、諸外国の事例なども踏まえ、議論する必要がある。
 出所:9月3日分科会資料

図表3 EUのスマホベースの接種証明(出所:EU委員会 “EU Digital COVID Certificate”)

図表3 EUのスマホベースの接種証明(出所:EU委員会 “EU Digital COVID Certificate”)

 8.接種証明書のデジタル化

 EUとわが国における国外渡航用のパスポートの姿は、現時点で図表3と4に示す通りとなっている。

 ワクチン接種証明のデジタル化については、加藤勝信官房長官が、8月26日の記者会見で、「年内にもデジタル化し国内で使えるよう検討する」と表明した。また、9月5日には、日経新聞電子版が「政府はワクチン接種証明書を12月からオンラインで発行する」と報道した。

 こうした証明書のデジタル化は、「偽の接種証明をどのように防ぐか」という議論を通じて、「身分証明書そのもののデジタル化は可能か」といった議論にも影響を与える可能性がある。

図表4 わが国の接種証明書(出所:厚生労働省ホームページ「海外渡航用の新型コロナワクチン接種証明書について」)

図表4 わが国の接種証明書(出所:厚生労働省ホームページ「海外渡航用の新型コロナワクチン接種証明書について」)

 9.グローバルなワクチン供給格差問題

 ワクチンの接種は、先進国以外、特に低所得国で著しく遅れている。ワクチン接種済み者の人口比率(先進国・新興国・低所得別)は、国際通貨基金(IMF)の7月の資料によると、次の通りである。

 世界全体 13.2%、うち先進国 39.7%、新興国 11.0%、低所得国 1.2%
 出所:IMF Blog “Drawing Further Apart: Widening Gaps in the Global Recovery” (7月27日)

 なお、計数は7月19日のものとされており、少々古い。

 現代の活発なグローバルな人々の移動は感染症の拡大を助けてしまう。今でこそ各国とも「水際対策」を講じているが、東京五輪でも見られたように「水際対策をくぐり抜けてしまう例」はどうしても出る。このため、先進国以外でもワクチン接種を普及させて、初めて世界全体での感染症収束の展望が開ける。逆に、新興国や低所得国も含めて感染症の流行が終わらないと、それらの国々で次々と生まれる変異株が先進国に入ってくるリスクは無くならない。

 先進国が、先進国以外の地域におけるワクチン接種の普及を支援することは、人道的であるとともに、先進国自身にとっても望ましい対応なのである。

 また、特に米国と低所得国のコロナ禍からの経済の回復の差が大きい場合、米国でのインフレ対策としての金融引き締めが低所得国経済に打撃を与える可能性も、IMFは強く警戒している。

 わが国は残念ながら「国産ワクチン」を持っていないため、ワクチンそのものを提供するという支援は(例外的な場合にしか)行いにくい。しかし、新型コロナワクチンの接種には、低温での輸送などに必要な「周辺の器材・ノウハウ」についてのニーズもある。こうした点では、わが国は、先進国以外の地域のワクチン接種の普及に貢献できる可能性がある。(了)

時事通信社「地方行政」2021年8月26日号に掲載した原稿を9月10日時点の情報を加えて大幅に加筆修正し転載)

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