医学生のフィールド

「災害医療×DMAT」あの時の教訓
〜ダイヤモンド・プリンセス号、救急医からメッセージ〜

 新型コロナウイルスの感染者が発生したダイヤモンド・プリンセス号に、DMAT(災害派遣医療チーム) として出動した中森知毅医師(横浜労災病院 救命救急センター救急災害医療部長)を招き、クルーズ船内での真相と災害時に医療者が果たすべき役割について聞いた。

2014年秋田県ドクターヘリ機内にて

 ◇生理学研究から神経内科を経て災害医療へ

 私が医師になった当時は、世間的にスペシャルティやプロフェッショナルが好まれ、現在の総合診療医や救急医のようなゼネラリストはあまり好まれていませんでした。私の場合はやりたいことをやってきて、現在のキャリアである救急医に行き着いた感じです。幼い頃にお寺に連れて行かれ、「この子はブドウの房のような頭を持っているから、一つのプロになるよりも、多岐にわたる仕事が良い」とお坊さんに言われたことをいつも思い出します。

 医学部在学中に出会った生理学の准教授に惹かれ、医学部卒業後は大学院生となり、生理学を研究して4年間を過ごしました。しかし、慕っていた准教授の死に直面し、また臨床への興味が高まり、4年遅れで臨床を始めることを決意しました。「基礎崩れ」と呼ばれるのも、同期に見下されるのも嫌だったので、独りで診察し、独りで考えて診断できるのではないかと考えて神経内科を選びました(後にこの考えは誤りだったと悟りますが)。

 知り合いの先生の紹介で、横浜労災病院の神経内科に勤めることになりましたが、そこでの10年間はかなり大変な修行の期間でした。副部長になったものの、私は先ほど申し上げた通り、ブドウの房の頭でしたので、院内で救急がER型として組織を改変するという募集を聞いて救急科に移りました。救急の仕事を積み重ねる中で、災害の勉強がしたい、DMAT隊員になりたいという思いが募り、2008年に国際緊急援助隊の隊員に、10年にDMAT隊員になり、同年に救命救急センターの設立に携わりました。その翌年、東日本大震災が起き、どんどん災害の世界にはまっていきました。

2021年8月に開かれた中森知毅医師のオンライン講演に参加した学生

 ◇救急医の目線から見た、日本の災害医療の変遷

 「災害医療を特別なものにしないで」というDMATの事務局長からの言葉にインパクトを感じています。これは、全ての医療者が災害医療のことをある程度は知っていないと日本での災害医療は成り立たないということです。日本には昔から災害医療の「プロ」はほとんど存在せず、その実情は今でも大きく変わっていません。言い換えれば、この国の災害医療は「ボランティア精神」で支えられています。海外ではこのようなことはなく、これは日本の災害医療の特殊性であり、危険な面でもあるのです。だからこそ、全ての医療者が災害医療を学び、緊急時には動ける体制づくりが必要なのです。

 ◇阪神淡路大震災が災害支援のあり方を変えた

 国内の災害支援のあり方を変えたきっかけは、阪神淡路大震災でした。バブルが過ぎ去りつつある時代に浮き彫りになった災害時の脆弱(ぜいじゃく)性は国民に衝撃を与えました。何よりも注目すべきは、「防ぎ得た災害死」が多数起こったことです。災害医療を担う病院や医療者の不足、搬送手段や情報伝達の不十分さなどの反省から、災害拠点病院、DMAT、広域搬送計画、EMIS(情報ツール)がつくられました。

 ◇東日本大震災 災害急性期の仕事であれば断らない

 東日本大震災では「病院避難」というミッションをDMAT史上初めて行いました。しかし、多くのDMAT隊員が果たすべき役割と教えられていた「がれき下の医療」を発揮する場がない状況や、DMATの医療の後を引き継ぐ医療チームが不在ということに戸惑いを感じていました。さらに関連死が注目され始めたのも、この地震でした。そのような反省から、「災害時に必要とされることはなんでも行う」、災害急性期の仕事であれば「DMATの仕事ではない」とは絶対に言わないとの認識を改めた震災でした。

 ◇熊本地震 チームでつながることの必要性を実感

 16年の熊本地震では、DMAT以外にも数多くの支援医療チーム(JMAT、JRAT、HuMA、国境なき医師団など多数)が集結するようになっていて、さまざまなチームをまとめる本部体制の重要性と、関連死を防ぐためには保健医療のチームでつながる力の必要性を強く感じました。行政では、医療・保健・福祉の3要素のバランスが注視されますが、医療のアンバランスが改善されてきた今日では、保健や特に福祉のアンバランスの是正が関連死の防止に重要と考えるようになった災害でした。

2019年4月モザンビークサイクロン被害支援、国際緊急援助隊医療チームとして

 ◇ダイヤモンド・プリンセス号での対応を振り返る

 20年2月3日、横浜港に到着したダイヤモンド・プリンセス号には3700人の乗客が乗っていました。私は当時、搬送要員として横浜港へ派遣されましたが、現場で急きょ、臨時検疫官として乗船するよう要請され、結果的に船内で医療対策本部をつくることになりました。DMATの医師は災害に慣れた救急医であっても、感染症の専門家ではありません。しかし、専門家でなくても災害時に必要があればNoと言わないのがDMATです。さまざまな葛藤や苦悩の中、2月8日に厚労省、DMAT隊員、船の医務室のスタッフ、クルーなどにより構成された本部が結成されました。

 ◇リスクの高い患者の安全をどう守るか

 当時の船内で起こった困難の一つに乗客の薬の問題がありました。処方薬を希望した乗客は約2000人。国内でそれらを準備したものの、疑似薬や規格外の薬が多く、手元に届けるまでに、かなり時間がかかっていました。乗客には臓器移植後、ステロイド内服中、免疫抑制剤内服中など、特別なケアが必要な乗客が多く、高齢者は船に長く滞在するだけで肺塞栓や心筋梗塞などのリスクがあります。さらに、外国人が船で亡くなった場合、国際問題になるのではないかなど、さまざまなプレッシャーを感じながら活動を続けました。横浜港到着から1月後には、全ての乗員乗客を下船させ、神奈川県にとどまらず、他県や外国を含めた遠方へ搬送が終わりました。

 今回の横浜港での対応を経験して言えることは、今回の大型船と同規模の個室病床の準備(海外では軍の設備で可能)をしておくことです。しかし、今の日本のように、それが難しい場合、全員を船室に隔離してPCR検査を早急に行い、陽性者と同室者を優先して下船、陰性者のPCRを数日置きに繰り返すことが必要だったと思います。しかし、実際は検査システムがニーズに追い付かなかった。同室者の隔離やクルーの隔離に時間を要したため、今回のような対応になりました。

 ◇過去の教訓を多くの人と共有し、次に生かす

 次に、パンデミックが起こったときに最善の方法をとるために、過去の対応がどういう経緯で、実際に何が行われていたのかを、より多くの人に知ってもらうことは大変重要です。そのために、現在ではDMATは当時の状況を知らせる活動を積極的に行っています。クルーズ船の経験により、感染病床でなく、一般病床にでもCOVID-19の患者が入院できるようなシステムをつくる必要があること、病院間の情報を共有するツールが必要であること、患者情報を共有する必要があることなどが分かり、これらはその後の神奈川県の新型コロナウイルス感染症対応の施策として生かされています。

 ◇何歳になっても夢を追うことができる

 医師という職業の良いところは「何歳になっても夢を追うことができる」ことです。私は卒業後、基礎医学の研究者、30歳で神経内科の臨床医、40歳で救急医学、その後、災害医療に目覚め、50歳で海外の災害現場に派遣されるという遅めの歩みをしてまいりました。「立場が人をつくる」というのも事実かと思いますが、何をするにも遅いことはないと学生の皆さまにお伝えしたいです。〔文:西野真季(横浜市立大学医学部2年)企画:学生団体メドキャリ※〕

【中森 知毅(なかもり・ともき)】

 神経内科から救急医学・災害医学に転向し、現在は横浜労災病院救命救急センター救急災害医療部長を務める。2011年東日本大震災、福島原子力発電所災害、15年常総水害、16年熊本地震災害、18年7月豪雨災害、19年台風15号、19号の水害、20年のダイヤモンド・プリンセス号で災害派遣医療チームDMAT隊員として出動、13年フィリピン台風被害、15年ネパール地震、19年モザンビーク・サイクロン水害支援に国際緊急援助隊として活動。

 ※学生団体メドキャリ   

 医療系の学生が自分らしいキャリアを考えるために2018年に発足した学生団体。キャリアに関するイベントや情報発信などの活動を行い、医療系の学生や若い医療者が広い視野を持てるように学びの機会や交流の場を提供している。facebookページ

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