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総合大学の英知を結集
~3学部合同授業でチーム医療の基礎をつくる―帝京大学医学部~

 ◇ボート部で鍛えた体力、統率力が外科医生活のベースに

 川村医学部長は医師の多い家系に生まれたが、父親は国鉄の技術職で、特に医師になるよう勧められたことはなかったという。

 「もともと理系で、高校時代は『将来、研究がしたい』と思うようになりました。その中で、『医師として患者の診察をしながら研究もして、基礎研究と臨床の橋渡しをするサイエンティフィックフィジシャンもいいな』などと考えていました」

 慶応義塾大学医学部ではボート部に入り、ただ一人オールを持たずにかじ取りを行う「コックス」を務めた。

 「体はずいぶん鍛えられましたけど、頭は鍛えられず。卒業の時点では能力ではなく、体力に自信がありました」などと自嘲気味に話すが、このときに培った全体をまとめる力が、後に生かされることになる。

 胃がんの研究を希望して外科に入ったが、結果的に胸部外科に入局し、肺がんの臨床と研究に取り組んだ。

インタビューに答える川村雅文医学部長

インタビューに答える川村雅文医学部長

 「肺がんの凍結療法を開発して、もう少しのところまでいけたのですが、実際に患者さんに役立てるまでは到達できませんでした。新しい治療法を開発して論文を書くまではできても、安全性や経済性も考え、事業として健康保険に収載されるのは大変なこと。医療機器の開発が絡むと、多額の資金も必要になって、なかなかそこまでこぎ着けられない。自分で会社を起こすというわけにもいかず、そこは思い知らされた人生でしたね」

 帝京大学医学部の教授になり、呼吸器外科教室の立ち上げに奮闘した5年間は非常に充実していたという。

 「まず症例を集めなければいけませんから、肺がんや炎症性疾患の手術で年間300例近く執刀しました。若い人をリクルートしてグループをつくり上げるところは、学生時代、人気のなかったボート部に新入生を勧誘した経験が役に立ったかもしれません」

 ◇時代の変化をとらえ、適応できる力を

 川村医学部長は、人口問題を筆頭にした社会情勢の影響で、医療環境は経済的にも非常に苦境に立たされると予測する。近い将来、医師数は飽和状態に達し、医師の働く場も産業医、行政、製薬企業など、さまざまな分野に広がっていく必要があるという。

 そんな厳しい時代を生き抜くために不可欠なツールが、デジタル化に乗り遅れないことだという。

 「医療の世界はEBMで実証されたもの、データで裏付けられたものでしか先に進めない時代です。医師はチーム医療を引っ張っていく立場の人間ですから、先を見通して、常に方向性を持つことが必要です。自分がやってきたことは日々の臨床データもデジタルで記録し、データベースにして統計的な裏付けをしておくことが大切。グローバルな目線で、なおかつ根拠となる自分のデータを持って戦っていくドクターを目指してほしい」と話す。(ジャーナリスト/中山あゆみ)

川村 雅文(かわむら・まさふみ) 1982年慶応義塾大学医学部卒業。同大助手などを経て2007年准教授。10年帝京大学医学部外科学講座教授、15年同主任教授。18年4月から医学部長兼務、22年4月からは医学部附属新宿クリニック院長も兼務。

【帝京大学医学部 沿革】
1931年 東京都渋谷区に帝京商業学校(現・帝京大学中学校・高等学校)として創立
  66年 帝京大学設立
      経済学部経済学科、文学部国文学科、英文学科設置(八王子キャンパス)
  71年 帝京大学医学部医学科設置(板橋キャンパス)
      医学部附属病院開院(板橋キャンパス)
  73年 医学部附属溝口病院開院
  77年 大学院医学研究科・博士課程設置(板橋キャンパス)
  86年 医学部附属市原病院(現・ちば総合医療センター)開院
  09年 医学部附属病院新棟竣工(板橋キャンパス)
  12年 新学部棟本館竣工(板橋キャンパス)

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