女性アスリート健康支援委員会 五輪と女性スポーツの歩みを見つめて

「名花」生んだ64年東京は遠く
スポーツ医40年、アスリートの変容と共に


 ◇女子体操の健康問題に気づく

 東京五輪当時は中学生だった川原氏が、スポーツ医学の道を歩み始めたのはモントリオール五輪のあった1976年だ。東京大学医学部を卒業し、付属病院で内科医としての研修を始めて間もなく、先輩医師に声を掛けられ、日本体育協会(現日本スポーツ協会)のスポーツ診療所で週1回、内科外来を担当するようになった。

 1977年、ブルガリア・ソフィアで開かれたユニバーシアードに日本選手団本部ドクターとして参加した川原貴氏(前列右端)(本人提供)
 「スポーツ医学という言葉も知識も知らなかった私に誘いの声がかかったのは、大学時代にアメリカンフットボール部にどっぷり漬かり、医学部では珍しい存在だったからでしょうね」と川原氏は笑う。

 当時は、スポーツ専門の医療機関はその診療所だけで、早速、日本代表選手らのメディカルチェックを担当するようになった。「77年に初めてユニバーシアードの日本選手団に同行し、翌78年にはアジア大会にも行きました」

 メディカルチェックで初めて、女子選手の特有の健康問題に気づいたのは、ロサンゼルス五輪のあった84年ごろだ。「体操の女子選手です。年齢を見ると、高校生や大学生なのに、まるで小学生のように体が小さく、原発性無月経(満18歳になっても初経がない)の選手もいて、びっくりしました」

 ◇「白い妖精」の登場が転機に

 世界の女子体操の転機は、モントリオール五輪の時にはすでに訪れていた。「白い妖精」ナディア・コマネチ選手(ルーマニア)が高難度の演技で五輪史上初の10点満点を連発し、個人総合の女王の座に就いたのが象徴的な出来事だ。当時、コマネチは14歳だった。

 「技がアクロバチックになって、選手も若年化、小型化が進み、チャスラフスカの時代とは全く違った体操になりました。私がメディカルチェックした日本の選手たちも、小さいころから激しい練習をやり過ぎて無月経になり、発育にも影響したのではないかと懸念し、強く印象に残りました」

 モントリオール五輪の段違い平行棒の演技で10点満点を出したナディア・コマネチ選手(AFP=時事)
 無月経に陥る一番の原因は、厳しいトレーニングの運動量に見合う十分な食事量を取っていない「利用可能エネルギー不足」であることは、現在のスポーツ医学では常識だ。

 トップアスリートが競技力向上にしのぎを削る中で、同じような問題が増えていく過程を、川原氏は体操以外の競技でも目の当たりにすることになった。(水口郁雄)




◇川原貴氏プロフィルなど

◇新時代、女子マラソンの光と陰(五輪と女性スポーツの歩みを見つめて・中)



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