ダイバーシティ(多様性) Life on Wheels ~車椅子から見た世界~

視線で「障害者」になったことを実感
~見られるのが嫌で引きこもりに~ 【第3回】

 こんにちは。車椅子インフルエンサーの中嶋涼子です。

 街で車椅子の人を見掛けたら、皆さんはどうしますか? 私が車椅子を使うようになった25年前、車椅子で移動するには、まだまだ多くのバリアーが社会にはあり、小さな子どもが車椅子に乗っている物珍しさもあってか、外出すると周囲の人々の視線を痛いほど浴びました。

ロケ取材中の中嶋さん。昔は街に出ると周囲の視線がつらかった

ロケ取材中の中嶋さん。昔は街に出ると周囲の視線がつらかった

 ◇「今までとは違うんだ」

 小学3年生のある日、突然足が動かなくなって入院し、三つ目に転院した慶応大学病院で車椅子生活に慣れてきた頃のことです。母と一緒に初めて一時外出すると、いろんな人が私に目を向けてきました。「そうだ、私、車椅子に乗っているんだ」。その視線で自分が「障害者」になったことを実感しました。

 それまで普通に行くことができたレストランや雑貨屋さんなども、狭かったり階段があったりして、自分1人ではもちろん、母1人の介助では入れません。お店の人や、通り掛かりの人に手伝ってもらって店内に入っても、車椅子が棚や商品に当たって、「すみません」と頭を下げることが何度もあり、私は落ち込みました。

 「今までとは違うんだ」。そう思うと、「街に出るのが怖い、車椅子に乗っている姿を人に見られるのが恥ずかしい」と思うようになりました。それは、私自身が障害者に対して偏見を持っていたからかもしれません。視線を感じるたびに、「障害者でかわいそう、カッコ悪いと思われているんだろうな」と勝手に思い込み、壁をつくってしまったのです。

車椅子になって初めて登校した日。ステロイド治療のせいで顔が少しむくんでいる

車椅子になって初めて登校した日。ステロイド治療のせいで顔が少しむくんでいる

 ◇以前の小学校に復学

 約9カ月の入院生活を経て退院すると、それまで通っていた桐朋小学校に4年生として復学しました。先生の中には、養護学校へ行った方がいいという声もありましたが、母と当時の担任の先生が話し合い、周囲の口添えもあって実現しました。

 学校側は、今後もけがをした子どもや車椅子の生徒が使えるようにと、車椅子で入れる広いトイレ、校門の段差にはスロープ、階段には昇降機まで付けてくれて、車椅子でも通えるように設備を整えてくれました。以前と同じ学校に通うことができた私は本当に恵まれていたと思います。

 車椅子になって初めて小学校へ戻った日のことは、今でも忘れることができません。運動会の日で、私が学校に着いた頃、クラスのみんなは器械体操を披露していました。器械体操が終わり、クラスメートが一斉に私のもとへ駆け寄ってくる映像が今でも鮮明に脳内で何回も再生されます。

 私は車椅子姿で久しぶりに友達に会うので、とても緊張していました。「みんなはどう思うんだろう…。びっくりするかな、ショックかな、かわいそうと思われるのかな、話し掛けてくれるのかな…」。不安ばかりが募る中、みんなが今までと何も変わらず話し掛けてくれて、すぐに緊張は解けました。車椅子を押したい、車椅子に乗ってみたい。みんなが車椅子を押したがるので、少し人気者になった気分でした。

車椅子で友達と一緒に行ったディズニーランド

車椅子で友達と一緒に行ったディズニーランド

 ◇大変だったトイレ問題

 学校へは母が毎日送り迎えをしてくれました。特に大変だったのはトイレの問題です。
私は下半身まひになったことで排尿障害になり、尿をしたい感覚がありません。当時は1人でトイレへ移動することもできなかったので、2時間目と3時間目の間の20分休憩と、お昼休みに母が学校へ来て手伝ってくれました。

 毎日、朝からお弁当を作り、車で小学校まで私を送り、休み時間のたびにトイレを手伝いに来ていた母には頭が上がりません。当時は私も必死でしたが、今こうやって文字にしていると、母がどれだけ私を支えてくれていたのか改めて感じて、泣きそうになっています。

 母が全力でサポートしてくれたものの、やはり母1人の力では限界があり、当時の女性の担任の先生や、保健室の女性の先生、クラスメートのお母さんたちが、トイレへの移動の手伝いをしてくれるようになりました。

 10歳の私としては、知らないお母さんや先生たちとトイレに行くことや、尿取りパッドをしていることを知られるのは恥ずかしかったのですが、そこはプライドを捨てて平気なふりをして、手伝ってもらいながらトイレをしていました。

車椅子で参加した小学6年生の時の運動会

車椅子で参加した小学6年生の時の運動会

 ◇やっぱりみんなとは違う

 みんなの支えがあって、毎日登校することにも慣れていきましたが、心の中ではやはり、以前のように自由に登校したり、友達と一緒に帰ったり、一輪車や竹馬で遊んだりすることができないことが悲しくて悔しかった。友達が大縄跳びや、ゴム段や鬼ごっこなどの運動をしている姿を笑顔で見ながら、本当は泣きそうでした。「歩けるなら自分はもっとできるのに。この子より運動神経いいはずなのに。いいなぁ」。そんな劣等感を感じながらも、できる範囲で友達と遊び、楽しく過ごしていました。

 体育の授業は、先生に「車椅子だと危ないから」と言われて見学していたものの、休み時間には同級生たちとスポーツを楽しみました。子どもって壁がないので、みんなでキックベースをする時は、私も参加できるように、ボールを蹴る代わりに手で打てばいいとか、車椅子で走る場合は、一塁の半分の所を一塁にするとか、独自のルールを編み出してくれたのです。もともとスポーツが大好きな私は、それがすごくうれしかったのですが、以前のようにスポーツで力を発揮できないのは、やはり悔しかったです。

 車椅子で初めて友達と遊びに行った時も、母の介助が必要で、移動も車がメイン。街で、いろんな人が車椅子の私を見てくることで、一緒にいる友達や母も嫌な気持ちになっているんじゃないか、そんな思いが募り、だんだん外出するのが怖くなってしまいました。

 通学や外出で車に乗っている間は、健常者と同じように車のシートに座っていられるから自尊心を保てます。でも目的地が近づくにつれて、緊張して動悸(どうき)がしてきて、着いてから車椅子に移動するのが苦痛でした。

 心の中に葛藤を抱えながら、人前では明るく振る舞いました。そのたびに傷つき、傷つくくらいなら家にいる方が楽、家でテレビを見ている方が人に見られなくて気が楽。そう思うようになり、ちょっとずつ引きこもりがちな生活になっていったのです。(了)


中嶋涼子さん

中嶋涼子さん

 ▼中嶋涼子(なかじま・りょうこ)さん略歴

 1986年生まれ。東京都大田区出身。9歳の時に突然歩けなくなり、原因不明のまま車椅子生活に。人生に希望を見いだせず、引きこもりになっていた時に、映画「タイタニック」に出合い、心を動かされる。以来、映画を通して世界中の文化や価値観に触れる中で、自分も映画を作って人々の心を動かせるようになりたいと夢を抱く。

 2005年に高校卒業後、米カリフォルニア州ロサンゼルスへ。語学学校、エルカミーノカレッジ(短大)を経て、08年、南カリフォルニア大学映画学部へ入学。11年に卒業し、翌年帰国。通訳・翻訳を経て、16年からFOXネットワークスにて映像エディターとして働く。17年12月に退社して車椅子インフルエンサーに転身。テレビ出演、YouTube制作、講演活動などを行い、「障害者の常識をぶち壊す」ことで、日本の社会や日本人の心をバリアフリーにしていけるよう発信し続けている。

中嶋涼子公式ウェブサイト

公式YouTubeチャンネル「中嶋涼子の車椅子ですがなにか!? Any Problems?」

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