連載・コラム一覧
五輪と女性スポーツの歩みを見つめて
アスリート健康支援委の川原貴会長に聞く
スポーツ医学に40年以上取り組み、日本のトップアスリートを支えてきた川原貴・前国立スポーツ科学センター長。オリンピックなど数々の国際大会の日本選手団にも同行し、女性のスポーツ参加の広がりと競技力向上の歩みを見つめてきた。選手たちの栄光とともに、その苦闘もよく知る立場だ。現在、日本産科婦人科学会や日本スポーツ協会などでつくる一般社団法人女性アスリート健康支援委員会の会長を務める川原氏が、この半世紀余りの女性スポーツの歴史と健康問題を振り返る。(3回連載)
川原 貴氏(かわはら・たかし)1951年鹿児島県生まれ。76年東京大学医学部を卒業し、研修医として勤務する傍ら、日本体育協会(現日本スポーツ協会)スポーツ診療所で、日本代表選手らトップアスリートのメディカルチェックや診療を始める。79年東大第二内科に入局。東大教養学部講師、同大学院総合文化研究科助教授を経て、2001年国立スポーツ科学センター医学研究部長、14年から17年1月まで同センター長。
日本代表選手団本部ドクター、本部役員として、オリンピックに6回同行した。現在、日本臨床スポーツ医学会理事長。
「信念のリーダー」小久保 裕紀WBC2017侍ジャパン代表監督
侍ジャパンは手本であれ=野球人生、熱く語る
2017年、野球の世界一決定戦ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に出場した侍ジャパンは、前評判を覆す健闘を見せ、日本中のファンの心を揺さぶった。小久保裕紀さんが請われて侍ジャパンの常任監督に就任したのは13年、42歳になる直前のことだ。3年半にわたり、日本代表として公私を問わず全ての面で手本となることを選手に求めながら、「小久保ジャパン」を率いた。メディアの批判に耐え、自らの信念を貫いた野球人生を語ってもらった。
小久保さんは1971年10月8日、和歌山県生まれ。和歌山県立星林高等学校を経て、青山学院大学に入学。92年、バルセロナオリンピック代表に選ばれ、銅メダルを獲得。93年には主将として青学を史上初の大学野球日本一へ導く。94年、福岡ダイエーホークス(現在の福岡ソフトバンクホークス)に入団。95年ホームラン王、97年打点王、99年主将として日本一に貢献。2004年に移籍した読売ジャイアンツでも主将で4番打者として活躍した。07年に古巣のソフトバンクホークスに復帰し、11年に史上16人目の400本塁打を達成。同年チームを再び日本一に導いた。12年に2千本安打を達成するなど、球界を代表する名選手。
「美と健康」説くスポーツドクター―中村格子氏
人気呼ぶエクササイズの提案
中村格子氏は、スピードスケート、新体操などの日本代表チームドクターとして、トップアスリートを長年サポートしてきた経験から、日本人の健康づくりに取り組む整形外科医。「健康であることは美しい」をモットーに、誰にでも実践しやすい効果の出るエクササイズを提案する。分かりやすい指導が人気となり、テレビや雑誌などで幅広く活躍。2012年に出版したDVD付き書籍「大人のラジオ体操」は83万部の大ヒット作となった。14年には「Dr.KAKUKO スポーツクリニック」を開設。スタジオを併設し、リハビリや予防のためのエクササイズ指導も行う独自の診療スタイルが人気を呼んでいる。
中村格子(なかむら かくこ) 1966年盛岡市生まれ。92年横浜市立大学医学部卒業。96年同大学院卒業、医学博士取得。厚生連相模原協同病院整形外科医員。99年横須賀北部共済病院整形外科医員、2002年自治医科大学整形外科学講座助教、03年日光市民病院整形外科科長・自治医科大学整形外科非常勤講師。09年国立スポーツ科学センター医学研究部研究員。13年横浜市立大学客員教授。14年に「Dr.KAKUKO スポーツクリニック」を開業し、院長就任。同年よこはま健康づくり広報大使。
「追い込みの女王」AYA クロスフィットトレーナー
シックスパックへの道=人生変えるフィットネス届けたい
「カリスマトレーナー」、「追い込みの女王」の異名を取る「クロスフィット」のトレーナーのAYA(あや)さん。2017年にメディアで最もブレークした注目の女性だ。クロスフィットとは、人間の日常にある動作を応用した種目を組み合わせて体幹を鍛え、基礎体力を上げる人気上昇中のメソッドだ。本場の米国では警察や軍隊のトレーニングプログラムとしても採用されているという。
そのトレーナーとして活躍するAYAさんはスラリとした長身、キリリとした表情のクールビューティーで、「フィットネスモデル」と呼ばれる分野を確立した。「体が変わると、それにより心に自信が湧き、人生をも変えてくれる」というクロスフィットを日本で広めた立て役者だ。鍛え上げた腹筋、背骨を中心に左右に盛り上がる広背筋は、「トレーナーとして、生徒が常に目指してくれる自分でなければいけない」という信念のたまもの。日本でフィットネスがもっと広がることを願いながら活動している。
AYA 1984年12月27日、兵庫県生まれ。体育大学を卒業後、フィットネスインストラクターになり、モデルとしても活動。2012年に米国発祥のトレーニング、クロスフィットに出合い、独自のプログラムを考案。クロスフィットトレーナーとして、モデルや俳優をはじめ、男女問わず、多くのクライアントを指導してきた。フィットネスモデルとして女性からの共感度も高く、現在、最も輝く女性の一人として注目を集めている。トレーニングメソッドやボディーメーク、食事法に関する著書多数。身長175センチ。
減量手術のパイオニア―笠間和典医師
新分野を切り開くパワーの源は
ダイエットは食事と運動が基本だといわれる。だが、体格指数(BMI、体重キロ÷身長メートルの2乗)が35を超えるほどの高度肥満になると、生活習慣の改善だけでは限界がある。例えば身長が160センチなら、90キロを超えるような人の場合だ。海外では胃を小さくして食べる量を減らしたり、腸を短くして栄養吸収を抑えたりする減量手術が普及しているが、まだ日本ではその存在すら知らない人が多い。
四谷メディカルキューブ(東京都千代田区)減量・糖尿病外科センターの笠間和典センター長は日本で初めて、腹腔(ふくくう)鏡下胃バイパス術による減量手術を実施し、世界各地で公開手術を行うパイオニア。現在、国内で行われる減量手術の半数以上を笠間氏らのチームが手掛ける。新たな分野を切り開くパワーは、どこから湧いてくるのだろうか。(ジャーナリスト・中山あゆみ)
笠間和典(かさま・かずのり) 1965年前橋市生まれ。90年群馬大学医学部卒業、同大麻酔・蘇生科に入局。94年大阪大学特殊救急部、95年から亀田総合病院(千葉)。2000年堀江病院(群馬)に移り、02年日本初の腹腔鏡下胃バイパス術による減量手術を行う。06年から四谷メディカルキューブ減量・糖尿病外科センター長。国際肥満代謝外科連盟理事、アジア太平洋肥満代謝外科学会前理事長、日本内視鏡外科学会理事、日本肥満症治療学会理事、大分大学外科臨床教授。
心臓カテーテルのトップランナー―三角和雄氏
連続日本一の症例数、高度治療も世界トップクラス
心筋梗塞など心疾患による死者数は年間20万人近くに上り、日本人の死亡原因ではがんに次いで2番目に多い。千葉西総合病院(千葉県松戸市)の三角和雄院長が率いるチームは、心臓をとりまく冠動脈疾患に対するカテーテル治療件数では2011年以降、連続日本一の実績(年間3000件)を持つ。胸を大きく切開せずに、手首や足の付け根の血管から細い管(カテーテル)を挿入する心臓カテーテル治療は、患者に負担が少なく、高齢化が進むこれからの時代、ますます注目されていく分野だ。三角氏は米国の循環器専門医資格を持ち、特に難易度の高い「ロータブレーター治療」では、現役医師でも世界トップクラスの症例数を誇る。宇宙船のコックピットのようなカテーテルスタジオで、生い立ちから米国での医師経験、トップを走り続けるきょうまでの道のりを聞いた。(ジャーナリスト・中山あゆみ)
三角 和雄氏(みすみ・かずお)1957年11月20日、大阪市生まれ。59歳。82年東京医科歯科大学医学部医学科卒業、同学部第三内科、83年国家公務員共済組合連合会横浜南共済病院第一内科、84年東京医科歯科大学医学部第三内科、85年イリノイ大学医学部シカゴ校留学(心臓血管病理)、87年ニューヨーク医科大学リンカーンメディカルセンター内科レジデント、グッド・サマリタン病院心臓内科クリニカル・フェローなどを経て、96年ハワイ大学医学部内科(循環器部門)臨床助教授・開業、98年帰国。医療法人社団木下会・千葉西総合病院心臓センター長・循環器科主任部長(ハワイ大学臨床系助教授併任)、2000年千葉西総合病院副院長、03年東京医科歯科大学臨床教授、04年千葉西総合病院病院長。(了)
「女性外来」の先駆者―対馬ルリ子氏
「産婦人科」の固定観念打破=気楽に相談、専門かかりつけ医を提唱
女性が生涯にわたり心身ともに健康でいられるためのサポートをしたい―。産婦人科医の対馬ルリ子さんは、女性特有の不調に対応する「女性外来」の先駆者の一人として女性医療をけん引してきた。「産婦人科は妊娠した女性が行く所」という固定観念を打ち破り、思春期から老年期にいたる幅広い年齢層の女性が、何かあったときに気軽に相談できる女性専門のかかりつけ医の重要性を提唱。東京・銀座に開業した自らのクリニックで日々、診療に当たるほか、全国約500人の医師らが参加するNPO法人女性医療ネットワークの理事長として、女性医療のレベルアップに努める。「女性を助けたい」という思いの源流は、生まれ故郷の弘前時代にまでさかのぼる。
対馬ルリ子(つしま・るりこ) 1958年青森県弘前市生まれ。84年弘前大学医学部卒業、東京大学医学部産科婦人科学教室入局、東京都立墨東病院周産期センター産婦人科医長などを経て、2002年ウィミンズ・ウェルネス銀座クリニック(現・女性ライフクリニック銀座)開院、03年NPO法人女性医療ネットワーク設立、12年女性ライフクリニック新宿併設、17年日本家族計画協会「松本賞」、「第46回デイリー東北賞」受賞。ウィミンズ・ウェルネス理事長。東京大学医学部大学院非常勤講師。医学博士。(了)
難手術に挑む「匠の手」―上山博康氏
症例数日本一の脳神経外科医
脳の血管にこぶができる動脈瘤(りゅう)は破裂すると、くも膜下出血を起こして死に至る危険性の高い病気だ。しかし穿通枝(せんつうし)と呼ばれる細い血管が絡みついて癒着していることが多く、損傷すれば重篤な機能障害につながるため、手術は難しいといわれることが少なくない。札幌禎心会病院(札幌市東区)の脳疾患研究所所長、上山博康(かみやま・ひろやす)氏はこうした難しい手術で、累計約2万5千の日本一の症例数を誇る。その技術は「匠(たくみ)の手」と称され、手術器具も自ら開発。中でも顕微鏡手術などで使われるマイクロハサミは、日本の脳外科医の8割が使用するとされる。
69歳の今でも、年間手術数は300例を超える。頭の中にいつ破裂するか分からない爆弾を抱え、不安な毎日を過ごす患者が全国から救いを求めて札幌まで足を運ぶ。さらに「上山博康脳神経外科塾」を主宰し、後進の育成に取り組むほか、テレビのコメンテーターとしてレギュラー出演するなど、寝る間も惜しんで活動を続ける。「毎日が戦争。負けたくないから、僕は力尽きるまで頑張ります」と話す。その原動力はどこにあるのか。生い立ちにさかのぼって探っていきたい。
上山博康(かみやま ひろやす) 1948年青森県生まれ。73年北海道大学医学部卒業後、同大脳神経外科に入局、関連施設で研修後、80年秋田県立脳血管研究センター、85年北海道大学医学部助手、86年講師、92年旭川赤十字病院脳神経外科部長、2012年4月より社会医療法人禎心会脳疾患研究所所長。
日本女性初の宇宙飛行士―向井千秋氏
宇宙から教育現場へ
向井千秋氏がスペースシャトル・コロンビア号に搭乗した1994年7月、多くの人が宇宙からのテレビ中継を見守った。日本人女性初、心臓外科医から宇宙飛行士への転身というバックグラウンドも大きな話題になり、今でもその姿は鮮明に人々の心に残っている。98年には2度目の宇宙飛行で、医師としての経験を生かした数々の実験を行った。あれから二十数年。仕事場を宇宙から地上に移しても、宇宙医学の研究、後進の指導にと活躍を続け、その勢いは衰える兆しもない。現在は東京理科大学の特任副学長として、国際化、女性活躍推進などに携わり、独自の教育プログラムを開発し、陣頭指揮を執る。「私が医者になれたのも、宇宙飛行士になれたのも教育のおかげ。だから私は教育のパワーを本当に信じているの。最近の学生は発想も豊かだし、自由で肩の力が抜けている。日本の未来も決して暗くないと思いますね」と目を輝かせる。(ジャーナリスト・中山あゆみ)
向井 千秋氏(むかい・ちあき) 1952年群馬県生まれ。77年慶応大医学部卒、同大卒の女性として初の心臓外科医に。85年、日本人女性初の宇宙飛行士に選出。86年向井万起男氏と結婚。88年医学博士。94年7月スペースシャトル・コロンビア号、98年10月ディスカバリー号に搭乗。2000年慶応大医学部外科学客員教授、04年国際宇宙大客員教授。07年宇宙航空研究開発機構有人宇宙技術部宇宙医学生物学研究室長、14年日本学術会議副会長、15年富士通社外取締役、東京理科大副学長、16年東京理科大特任副学長。
角膜治療の第一人者―坪田一男氏
「ごきげんだから、うまくいく」
慶応大医学部眼科学教室教授の坪田一男氏は、角膜治療の第一人者だ。角膜移植のための独自のアイバンク創設、再生医療を臨床応用した角膜移植術、屈折矯正手術(レーシック)、ドライアイの研究、近視の予防、抗加齢医学など、眼科領域における数々の最先端技術の導入に取り組んできた。
角膜移植を受けたい人がいるのに、角膜が足りない―。それならば自分たちでアイバンクを創ろう、と動き出す。資金調達やマンパワーの確保も考えると、途方に暮れるほどの仕事に見えるが、医師仲間だけで解決できない問題が生ずれば、必要なサポートを求めてどんどんネットワークを広げていった。
前例にとらわれずに新しいことを始めようとすれば、必ず抵抗に遭う。困難が立ちはだかったときには、「患者に役立つのかどうか。患者に喜んでもらえるかどうか」という基本に立ち返り、行動してきた。発想の基本には『ごきげんだから、うまくいく』という信念がある。「自分たちが最初から楽しんでいれば、環境がどうであれ、どんどん進んでいくことができる。うまくいくからごきげんなのではなく、ごきげんだからうまくいく」。その極意とは?
人工股関節手術の第一人者―石部基実氏
患者からの厚い信頼
股関節の痛みに苦しんでいる人は推計500万人に上る。股関節は人体で最も大きな関節であり、上半身と下半身をつなぐ要の役割を果たす。そこが痛くなると、普通に歩くことも苦痛になり、次第に外出がおっくうになって家にこもりがちになる。医療機関を受診しても、適切な治療を受けられないまま、痛みに耐えて暮らす人が多いのが現状だ。人工股関節手術の第一人者である石部基実氏(59歳)の下には、国内各地だけでなく海外からも股関節の痛みを抱えた患者が殺到する。悪くなった股関節をチタン製の人工股関節に交換すると、すぐに長年の痛みから解放される。傷が小さく負担の少ない手術法を採用することで、入院期間も10日程度と短い。手術を受けた多くの患者がクリニックのホームページに自らの写真とメールアドレスを公開して体験を語るなど、高い満足度を得ている。
欧米式のユニークな開業スタイルにも注目が集まる。人工股関節手術に特化したクリニックでありながら、手術室も入院設備もない。クリニックでは術前、術後の診察だけを行い、提携する病院に石部氏とクリニックの看護師が出かけていって手術を行い、患者はその病院に入院する。回診も石部氏が自ら行う。人工股関節手術だけで昨年1年間で642件と国内有数の実績を持つ。その成功の秘訣(ひけつ)はどこにあるのか、札幌市の大通り公園近くのビル10階にあるクリニックに石部氏を訪ねた。(ジャーナリスト・中山あゆみ)
石部基実(いしべ・もとみ)
1957年10月、東京都生まれ。1982年、北海道大医学部卒。同大整形外科に入局、1989年、米ロチェスター大留学、1994年、NTT札幌病院整形外科(現・NTT東日本札幌病院)医長、2006年、同院人工関節センター長。2008年3月、人工股関節手術を専門とする石部基実クリニック(札幌市)を開業。人工股関節手術だけで年間600件以上と国内有数の症例数を持つ。
天皇陛下の執刀医―天野篤氏
「なぜ医師を目指したのか」 =天皇陛下の執刀医―天野篤氏
生前退位の意向をにじませた天皇陛下の「お気持ち」表明は、国民の多くに驚きを持って受け止められたが、全く別の意味で衝撃を受けた人がいた。陛下が4年前、冠動脈バイパス手術を受けられた際、執刀医を務めた順天堂大学医学部付属順天堂医院院長(心臓血管外科学講座教授)の天野篤氏だ。
ビデオメッセージの形で公表された「お気持ち」について、「最初は手術をしたことが相当マイナスだったのかな」と考え落ち込みましたと言う天野氏。しかし、お言葉をよく聞いてみると「全国いろいろな所へ行って国民と触れ合えたというようなことを述べられていて、(手術成功が)少しはお役に立てたのかも」と思い直したという。
高校時代、父親の病気が深刻になり医師の道を志すようになった天野氏。医学部受験に3度失敗し紆余(うよ)曲折もあったが、今ではトップランナーとして走り続ける。「陛下が常に国民を思い、国民のために祈ってこられたように、自分自身も患者さんサイドで考え努力しよう、もっとやらなければと思うようになりました」と決意を新たにした。
手術数はこれまで7200例を超える。61歳の今もなぜ医療現場の前線に立ち続けるのか、その思いや生き方を少年時代までさかのぼって探っていく。(ジャーナリスト・中山あゆみ)
*注意*
記事の執筆、公開当時は天皇陛下でした。2019年5月1日に上皇になられました。記事の性格上、本文中は天皇陛下としてあります。
天野 篤氏(あまの・あつし)1955年10月、埼玉県蓮田市生まれ。83年日本大医学部卒。新東京病院心臓血管外科部長、昭和大横浜市北部病院循環器センター長・教授、順天堂大医学部心臓血管外科教授などを経て、2016年に同大医学部付属順天堂医院長。冠動脈バイパス手術の第一人者で、12年2月には、東京大との合同チームの一員として天皇陛下の心臓手術を行った。